人間誰しも幸せを望んでいます。
食べることに喜びを見出す人もいれば、睡眠を好む人もいて、大勢で過ごす時間を好む人もいれば、一人で過ごすことを好む人もいます。
また、同じ人でもタイミングによっては一人が良いと思う時も一人は嫌だと思う時もあるかもしれません。
この様に、実は幸せとは一つの固定的な観念ではなく、実に流動的で多面性に富んでいるのです。
では、幸せはどうすれば得る事ができるのでしょう?
私は、幸せは舞い込んできたりつかみ取ったりするものではなく、気づけるかどうかだと思っています。
例えば、子どもがおばあちゃんからお小遣いをもらったとします。
その時に「お金が増えた」という点に着眼した幸せにしか気づけないのか、または「お小遣いをくれるほどにかわいがってくれる人がいる」ことに気づけるのか。
もちろん子どもがそんなことを考える事はないでしょう。
私たちの日々の生活の中で、小さな幸せに気付ける人は幸せなんだろうし、そこに気づけない人は不幸とは言わないまでも幸せとも言えなさそうです。
今一度、周りで過ぎ去っていく幸せに目を向けてみましょう。
私は先日、50歳の誕生日を迎えました。
23歳で社会人になって27年、PLEASUREを立ち上げて19年目に突入するわけです。
49歳と50歳で何かが違うわけでもないのですが、何となく区切りの年のように思えます。
特にこの年になって思うのは「人生には終わりがあり、終わりがあるからこそ実りあるものにしたい」ということ。
ではどの様に実りあるものにするのか?
せっかく人として生まれてきたのだから、人に恵まれた人生にしたいものです。
ではどの様に人に恵まれるのか?
それは誰かの役に立つこと。
誰かの役に立つには?
与えて与えて与えることです。
その繰り返しのうちに必要としてくださる人に恵まれることが、私なりの幸せの定義です。